「波の上の甲虫」映画化記念として小説の方を取り上げます。
映画の方も面白かったら取り上げるかもしれません。あまり期待してませんが。
「日本はどんな陽気ですか?こちらは薄曇りで、時々強い日が差します。今日の午後、ボラカイ島に到着しました。」
物語はこの書き出しの手紙からスタートします。
手紙は“僕”のボラカイ島での様子を楽しげに、また事細かに報告し、明日また書きますという言葉とともに締めくくられます。
しかし次のテキストでいきなり手紙の内容が否定されてしまいます。
そのテキストは手紙に書かれたことはまったくの嘘だと主張し、その一日の“彼”の本当の行動を綴っていきます。
そしてしばらくは嘘の手紙と本当の行動の記述を交互に読んでいくことになります。
ところが途中から手紙の中で、手紙の方が本当の記述で、もう一つの文章は嘘の日記であるという主張を始めます。
互いが互いを嘘だと主張する中で頭を抱えながら読み進めていくと、最終日に互いの出来事が入れ替わり、読者はおろか登場人物までも頭を抱えながら手紙、そして日記が書き終えられます。
そしてエンディング。
手紙とも日記とも違う第三のテキストが登場し、その後の経過を説明します。
あとに残されたのは一枚の葉書だけ……。
作者のいとうせいこうという人物は小説だけでなく映像、音楽、舞台など幅広く活動しているため非常に肩書きがつけづらいのですが、あえてつけるとするならば“アーティスト”というのがもっともしっくりくると思います。
だまし絵を見ているような文章のトリックはいかにも“アーティスト”いとうせいこうらしい作品と言えるでしょう。
ところで日本に“アーティスト”を名乗れる小説家はどれだけいるでしょうね。
文責:柚木千夜